* * * 「なんとか今日一日ごまかせたね」 海から聖水を汲み上げ、箱馬車に乗って宮殿へ戻ってきた道花は桃花桜宮の客室でふぅと溜め息をつく。「……いや、ぜんぜんごまかせてねーぞ」 カイジールはそんな道花の言葉に呆れながら、すでに九十九は自分が女王の娘ではないことを知っているのだと彼女に告げる。「え、そうだったの? でも、花嫁どのって」 「形式上だよ。向こうには向こうの都合があるんだ。ボクたちが女王の娘をすぐに準備できないのと同じで」 「……はぁ」 なんとなく腑に落ちない言い方をされ、道花は胸元に手をあて、首を傾げる。「なんかモヤモヤするなぁ、そういうの」 すでに宮廷装束は脱ぎ捨て、セイレーンから持ってきた部屋着一枚になっている道花はカイジールが着物の帯をぐいぐい引っ張ってほどこうとしているのを手助けしようと背後へまわる。「とりあえず道花はいつもどおりに過ごしていればいいから」 背中越しのカイジールの声に、道花はこくりと首を振る。「……うん」 彼がそう言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。自分は神殿内で珊瑚蓮の精霊と呼ばれ、その加護の大きさを見込まれてカイジールの侍女となったのだ。彼に何か起これば、そのときは身代わりになることも必要だと、那沙は口にしていたし、彼も道花が九十九の花嫁になれなんて言っていたけれど……「だけど慈流。あたしにできることがあるのなら、ちゃんと教えてよ?」 「ああ。いまは体力を温存させてゆっくりしてろ。下手すると、こっちまで巻き込まれかねないからな」 その言葉に道花は凍りつく。かの国で三年前に繰り広げられた神皇帝の継承問題は、まだ完全に解決していないのだと。「……それって大変じゃない!」 「――だからキミにはおとなしくしてもらいたいんだよ。珊瑚蓮の精霊――ロタシュミチカ」 改めてカイジールに役割を告げられ、道花は身体を震わせる。 セイレーンの海に古くより生きつづける珊瑚蓮は、創造神と海神が戯れに
* * * 今日は、新月。 月のない藍色の夜空は、僅かな星明かりだけが道標になる。 道花とカイジールを乗せた箱馬車は司馬浦の港へ到着した。ひとがごった返していた船乗り場は今朝とうって変わってしんと静まり返っている。「海水を採取されるのでしたら、北の波止場がいいでしょう」 「ありがとうございます」 宮廷装束姿のままの道花は素直に頷き、木陰に教えられた方角へ一目散に駆け出していく。羽衣を纏った天女のように軽やかな後ろ姿を見て、九十九は苦笑する。「侍女どのは、せっかちなのだな」 「終始落ち着きのない娘ですみません」 カイジールはそっけなく応え、道花を追って行った木陰の姿が見えなくなったのを見計らって、指先で素早く魔術陣を描く。ふたりを囲むように銀色のひかりが砂地に浮かぶ。「慈流どの?」 一瞬にして波音が止み、砂の上に取り残された九十九が不審そうにカイジールを見やる。どうやら結界を張られたらしい。 ひっそりとした夜闇に囲まれ、ふたりは互いの表情を見つめ合う。「ようやくふたりきりで話ができるな」 その声色の変化に、九十九は驚くことなく首を縦に振る。「……やっぱり男性だったのか」 「あいにく、ボクはキミの花嫁になれないんだ」 さばさばした口調で告げるカイジールに、九十九は首を傾げる。「初対面のときより随分刺々しさが減ったな」 「そりゃ、最初はキミを殺してやろうと思っていたからね」 自分を殺そうとしていた、と晴れやかな笑顔で言われて九十九もようやく思い出す。自分の父親が彼の一族を恐怖に追いやった過去を。「ということは央浬絵どのの血縁者か」 「残念ながら血は繋がっていない。ボクは彼女の娘ではない、どっちかといえば弟だ」 「血は繋がっていないのに弟?」 「両親が違うのさ。九十八が心臓を抉りとって食したのは、央浬絵の産みの親であるのは事実だが、ボクを育ててくれた親でもある」 だから自分はかの国の
「迎えに来たぞ、陣仙(じんせん)の舞姫」 迎えに来てと頼んでもいないのに、男は堂々と踊り子の少女に宣言する。海の匂いのする青年は少女の華奢な腕をとり、跪いて手のひらへくちづけを送る。「……哉登(かなと)さま?」 迎えに来るとは一言も口にしていなかったのに。ひとりで踊り子として生きていこうと、そう決意した矢先に、彼は現れた。 まるで神の遣いのように。「なんだ、嬉しくなさそうだな」 「だって……もう二度と逢うことはないと」 一晩限りの遊戯だと、そう思っていたのに。瞳を潤ませて応えれば、そんな言葉はききたくないと彼の唇に塞がれる。「周りの人間の言うことなど気にする必要はない。俺は神のちからをこの身に引き継いだ王だ。お前を妃にするくらい、簡単なことさ」 啄ばまれた唇が離れれば、飛び出すのは偉そうな言葉ばかり。「ほんとうに、いいのですか」 信じられなかった。大陸の向こうでは佳国(かのくに)の神の血を引き継いだ王が島々を統べていると、寝物語できいたことはあったけれど、お伽噺でしかないと思っていたから。 まさかほんとうに自分と同じ世界に生きていたなんて。そしてあろうことか天涯孤独の自分を妃に望むなんて。「俺はお前が欲しい。ついてこい、活」 一度は叶うことない恋だと諦めていた。けれど彼は迎えに来た。自分を妃にするために。 差し出された手を、振り払うだけのちからはなかった。「はい」 ――それはいまから三十年以上前の、九十八代神皇帝哉登が最初の妃を娶ったときの物語。 * * * 兆大陸の東に位置する潮善と呼ばれる国の舞姫、活凛(かつりん)は、神皇帝に求められ、皇一族に仕える狗飼家の養女となり、妃となった。狗飼活という名を与えられた彼女は寵妃にのぼりつめ、やがて二人の男児を産んだ。 子どもの名は活が生まれ育った陣仙の地に因み陣哉と仙哉と名付けられたが、活が異国出身の踊り子であることから皇位継承権はないに等しかった。 反対に、第二妃でありながら近年のかの国の政に欠かせない帝都清華(ていとせいが)の娘、藤諏訪季白(ふじすわときしろ)が産んだ息子が陣哉と仙哉よりも幼いというのに次代の神皇帝として九十九という通り名を与えられ、大事に育てられたのである。「……陣哉が生きていたら」 過去を反芻し、遠い目をしていた活は口元から零れた言
カイジールと九十九の視線が絡み合う。 ふたりはまるで挑み合うように瞳をぶつけ、見えない火花をバチリと散らす。 一瞬で宴の賑やかな空気は途絶え、刃の上を素足で歩くような緊張感が全体に漂いだす。 ――これが、かの国……賀陽成佳国の現神皇帝、皇九十九(すめらぎつくも)。 卓上にいたすべての人間が、無言で立ち上がり、礼をし、動きを止める。 改めて、十八歳の少年王と対峙する。周囲の人間は誰もが頭を垂れてじっと彼の言葉を待っているが、カイジールだけは彼の吸い込まれそうな夜色の瞳を見つめていた。不敬だとは思わない。むしろ、自分の海色の瞳で見つめ返して、彼の父である九十八が犯した罪を暴いてやりたい。家族を食い殺されたカイジールにとって九十九は憎い男の息子でしかない。けれど。 ――あんたに九十九は殺せないよ。 セイレーンで告げられた那沙の言葉が、重くのしかかる。彼女はどこまで未来(さき)を見つめているのだろう。「皆のもの、面をあげよ」 ぴん、と張った声が静まり返った宴の場に響く。その透き通った美声に、道花が驚いて目を白黒させている。「遅くなってすまない。どうかこのまま続けてくれ」 それだけ言って、すたすたとカイジールの方へ歩み寄り、腕を取る。「我が花嫁どの」 「……九十九さま」 「ふたりきりで、話がしたい」 「そ、それは」 単刀直入すぎる物言いに、悠凛と道花が顔を合わせて困惑している。料理の話で意気投合したのか、いつのまにかこのふたりは親しくなっている。 仙哉は「お邪魔したら悪いから」と立ち上がり、不機嫌そうにひとり酒を飲みつづけている母親を窘めに行ってしまった。九十九と仲が悪いのかと勘繰りたくもなるが、ふたりの間には険悪な空気は存在していない。 カイジールが黙っていると、九十九が緊張をほぐすようにやさしく語りかけてくる。「なに、すぐに終わる。心配なら侍女どのを連れていてもかまわん。我のほうも木陰を連れておる」 いつの間にかさっきまで座っていた仙哉の席に銀髪の木陰が座り、
* * * さっきから不穏な会話ばかり耳にしている。人魚の五感は人間のそれよりもはるかに有能だから人間が秘密裏に語り合っている話や聞く必要のない余計な話まで耳に入ってきてしまう。カイジールは道花の様子を気にするが、彼女は半分人間だからか聴覚は常人と変わらないようで、特に苦痛そうな表情は浮かべていない。「どうされました?」 むしろ隣で歓談してくれている仙哉の方がカイジールの苦虫を噛んだ表情に感づいて困惑顔を見せている。「……ちょっとひとにあたっただけです」 遠くの円卓であなたの母親らしき方が人魚の心臓を食べたがっているようです、とはとても口にできない。口にしても冗談にならないところが恐ろしい。 現にカイジールを育ててくれた女王の両親は九十八代神皇帝哉登に心臓を抉られ、生のまま食い殺されている。人魚が死ぬと生命活動を司っていた心臓は時間を巻き戻すように急速に縮むのだ。それを体内で吸収すれば、心臓を縮ませる成分も身体中に循環し、肉体を若返らせることが可能になる。食べ過ぎると毒だが、心臓ふたつを食べた哉登は五十代の見目から一気に二十歳ほど若がえり三十代の姿を取り戻している。きっと心臓ひとつにつき十年若返らせることができるのだろう。だからといってカイジールは自分の心臓を人間に与えるつもりは毛頭ない。「そうか、ならいいのだが」 仙哉は穏やかな表情で卓に並ぶ前菜に手をつけている。現神皇帝の曽祖父の頃より活発になった外つ国との積極外交によって、かの国の衣食住は多様化してきている。装束や建造物だけでなく、さりげなく食事のなかにも珍しい野菜が使われていたり、甘い香りの酒が並んでいたりとセイレーンでは見ない物も多く、つい手を伸ばしてしまうようだ。 ――特に道花が。「おいしぃですね! この揚げ物。珍しいお野菜なんですか?」 「こちらは北海大陸の多雪山系(たせつさんけい)より取り寄せました山菜が主の天麩羅となっております。お隣の皿に盛られておりますのが隣国潮善(ちょうぜん)より獲ってきた藻屑蟹(もくずがに)の蒸し物です」 「これが蒸蟹(むしがに)ね
* * * カイジールたちが座る円卓よりすこし離れた場所で、葡萄色の裾の長いドレスを着た女性が黙って酒を飲みつづけている。紫がかった黒髪に、灰紫の瞳。紫は神皇帝にのみ許された禁色であるというのに、衣だけでなく容姿からして異様な年配の女性は、誓蓮よりやってきた人魚の女王を忌々しそうに睨みつけている。「そんなに凝視していると気づかれますよ」 「別によい。妾があの女を嫌悪しているのは事実じゃ」 「だけどそうするとぼくが彼女に近づけないじゃないですか」 外つ国から入ってきた硝子細工の杯に琥珀色の液体を注ぎながら、女性と同じ髪の色を持つ少年はくすくす笑う。はたから見るとあどけない表情だが、心の奥では蔑んでいるような、乾いた笑顔である。「お前が彼女に近づくとな? それは兄上を想うがゆえの行動かえ?」 「まさか」 銀に近い灰色の瞳がきらりと光る。鋭利な刃物を彷彿させる、冷たい双眸に女性も頷き返す。「くだらぬ野心か。まぁよい。あの慈流とかいう女、たいそうなちからを持っているようだしの。こちらにつけて玉座を引きずり落とす手伝いでもしてもらえばよい」 九十九が統治するいまのかの国は間違いだらけだ。なぜ始祖神の血を引き継ぎ『地』のちからを有するだけで彼ら皇一族は頂点に咲きつづけるのか。同じちからを持ちながらなぜ自分たちは彼らの眷属にしかなれないのか。誓蓮では眷属である人魚が国を治めていたというのに。「そのようなことをこの席で語られるのもどうかと思いますがね……人魚はひとと違って五感が鋭いですから」 「ほう、狗の嗅覚より鋭いとな? ならば余計欲しくなるの」 「ことが終われば活さまに差し上げますよ」 杯に注がれた酒をくいと飲みながら、少年は明るく告げる。「なんせ彼女は、人魚ですから」 人魚。それはかの国では見ることの叶わない美しき魔性。不老不死と噂され、神に近い存在として崇められているが、実際のところ不老であって不死ではない。人間より長い年月を生きるから不死と思われているだけだった。それを快く思っていなかった神が気まぐ